久しぶりにブログ書いたら本題まで長すぎたので目次つけます。読んでほしいのは「サカナクション「ユリイカ」の歌詞を考察する」です。
- サカナクションのライブが飛んだ現実から逃げる
- 久しぶりにサカナクションの「834.194」を聴いた
- サカナクション「ユリイカ」の歌詞が受け取れたような気がした
- サカナクション「ユリイカ」の歌詞を考察する
- この曲ができたとき、きっと一郎さんは嬉しかったのだと思う
サカナクションのライブが飛んだ現実から逃げる
サカナクションのアリーナ公演のチケットが当たっていたんです。
初のソロライブ(参加側)、初のスペシャル席だったのですが、あえなく中止となり、悲しみに暮れた結果、サカナクションは聴いていませんでした。笑
毎週配信されていた過去のライブ映像も「この熱量、画面越しだと超つらい」という謎の感情に包まれ、次第にフェードアウトしました。
ライブの中止が悲しすぎて好きなアーティストの曲をあまり聴いていませんでしたという人、私以外にもいるのかな・・・。
久しぶりにサカナクションの「834.194」を聴いた
久しぶりにサカナクションを聴いたきっかけ。
それは長谷川白紙さんのツイート。
長谷川白紙さんはツイートが多くて、既に埋もれていたので、ツイートを引用させていただきます。
(長谷川白紙さんの「草木萌動」「エアにに」「夢の骨が襲い掛かる!」とてもいいので聴いてください。私はヘビロテしてます)
サカナクションの「蓮の花」を初めて聴いた時、Bメロの「せめて」のところでiv-iiiの掛留-解決がまさに「せめて」という言葉の切なさを的確すぎるほど表してて2回目どうするんだ…て思ってたら「垂れ下がって」=下降音形という形でより具体的に複層化をしてきたときの感覚今でも思い出すだけで興奮する
— 長谷川白紙 (@hsgwhks) June 28, 2020
これ、全く理解できなかったのですが、とにかく「この部分は思い出すだけで興奮するほどにすごい」という趣旨だということだけは分かりました。
なにがどうすごいか知りたかったので、久しぶりにサカナクションを聴きました。
サカナクション、アルバム「834.194」より「蓮の花」
結局、全然理解できなかったんだけど、音楽理論的にも切ないメロディで、音でも切なさを強調して表現してるんだなぁと感心しました。
サカナクション「ユリイカ」の歌詞が受け取れたような気がした
久々の出勤となった今週。
久しぶりに電車に乗り、サカナクションの「ユリイカ」を聴いて都内を移動するというなかなか粋な演出を自らに仕掛けたのですが、聴いていてハッとしました。
(ユリイカのPVは年齢制限がかかっていたはず)
ほぼ在宅勤務で余計なノイズがないからなのか、最近は感覚をキャッチする受容体がいい感じに作動していてるのか、今までよくわかっていなかった歌詞が「こういうこと?」と解釈できたような気持ちになりました。
ということで、前置きが死ぬほど長いですが、今日感じた「ユリイカ」をここに書いておこうと思った次第です。
ただし、ユリイカは「東京」という言葉が多く散りばめられていて、大きく「(故郷と)東京」が登場します。
ところが、私は東京出身なのです。
どう頑張っても故郷から東京を思うことができないので、思い込みや想像を多く含んだ解釈になっていることをご承知おきいただき、サカナクションファンになっていただけることを祈ります。笑
サカナクション「ユリイカ」の歌詞を考察する
ユリイカは東京から故郷を思うことがテーマの曲。
つまり「郷愁」ノスタルジーです。
ユリイカにはたくさん「東京」が出てきていますが、物理的な移動はなくても「昔を思う」という捉え方ができるじゃんと気づいた冒頭。
いつも夕方の色
髪に馴染ませてた君を思い出した
ここは東京
空を食うようにびっしりビルが湧く街
なぜか”いつも夕方の色を馴染ませていた君”で想像したのは女の子でした。
私は制服に身を包み、夕焼けの中下校しているシーンがよぎった。
君はいつも夕方の色に髪を馴染ませている、その姿を思い出すのだとすれば、君に会うのはいつも夕方で、何かが終わった後。
君は僕と一緒に下校していたのかなと私は想像しました。
作詞をした山口一郎さんに、もし原体験があるのだとしたら、このシーンは男の子なような気がするし、学生でもない気がします。なんなら擬人化した「過去の自分の音楽」かもしれないとすら思います。
それを思い出しているのは「(今は)東京にいる僕」
東京⇔故郷間の物理的距離ではなく、時間的な距離としても捉えることができると気づきました。
冒頭部分で「過去」と「現在」という時間的な奥行きが表現されているので、最初から”エモい”感じが出ているんじゃないかな~。
・・・エモいっていう雑な表現に逃げている気がするので、ここんところ頑張って書くと
夕方の髪の君を見ていた「過去の僕」と東京にいる「今の僕」は明らかに何かが違うんだと思う。
周りから期待されているからという理由で本来自分がやりたかったこととは少し離れたことをしていたり、多少打算的になったりして、昔よりも擦れたというか、純粋さが消えたのではないかと僕はモヤモヤを抱えているのかもしれません。
純粋さが消えた「今の僕」は過去の僕を思い出して、哀愁や切なさを感じているのではないかと私は思う。
これは多くの人に当てはまる哀愁だよね。
君が言うような
淋しさは感じないけど
思い出した
ここは東京
それはそれで僕は生き急ぐな
どうやら故郷にいた君も今東京にいて、淋しさを感じていると聞いたけれど、僕は淋しさを感じないほどに何かに追われているのでしょうか。
それは違うと思います。
僕は「君がいうような淋しさ」とは別の淋しさを感じているのだと思います。
君が言う淋しさが「東京での慣れない生活で、ふと故郷を思って淋しい気持ちになる」というホームシック的な意味であるならば、僕が感じている淋しさは「今の僕が昔の僕と変わってしまった淋しさ」なのだと思う。
君と僕が感じている「淋しさ」は違う。
「君が言うような(ホームシック的な)淋しさは(もう)感じないけど(今の僕は昔の自分と変わってしまって僕は淋しいし、ホームシックすら感じなくなった自分を認識して)それはそれで生き急ぐなぁ」のだと思う。
ここが東京である以上故郷を思っても、ますます「東京(現在)」に視点がいってしまうし、初々しい感性が消えかけていることを認識して、僕は生き急いでしまうのでしょう。
この「生き急ぐな」は僕が「生き急ぐなぁ」と思っているのか、僕が自分に「No 生き急ぎ」と言い聞かせているのかは定かではありませんが、私は「生き急ぐなぁ」だと思っています。
いつ終わるかな 風が吹く度 生き急ぐ 生き急ぐ
いつ終わるかな 意味もないのに 生き急ぐ 生き急ぐ
いつ終わるかな 壁が立つ度 生き急ぐ 生き急ぐ
いつ終わるかな 意味もないのに 生き急ぐ 生き急ぐ
ここから音が増え、ずっと東京の僕が今のことを歌っています。今までは東京と故郷、過去と現在を行き来して揺さぶられていましたが、時系列が今のままです。
「風が吹く」というのは、単に風が吹いているのではなくて、「何かが起きている」という隠喩で、感情が動いたり、何かが起きたりしていることが表現されています。
風が吹くと場面(感情)が変わる(動く)のはジブリ作品でも表現されていますね。
何かあるたびに僕は生き急ぐし、何もなくても生き急ぐし、何かしらの壁にぶち当たっても生き急ぐ。
「壁が立つ」は「東京の景色(ビル)」と「壁(起こっている障害)」と2つを表現しているかもしれない。
東京の街が変わりゆき、発展する様子を見て、「果たして今の自分は発展しているだろうか」と自問し、焦りを感じているようにも取れます。
僕は常に何かに追われ、焦り、「早くやらなきゃ」と急いでいるけれど、「いつになったらひと段落するのか」「いつになればこの状況は終わるのか」とちょっと疲れていて、故郷を思って現実から逃げようとしても、ここが東京である以上より「現実」を色濃く認識してしまい、現実逃避すらも難しい。
とてもつらい状況とも取れますが、音を聞くと、なんとなく「そうである現実」を淡々と受け入れようとしている風にも取れます。
ちなみに、この「いつ」「終わるかな」の間に「yeah yeah」と歌っているのですが、リスナーが「永遠に聞こえる」と言っていたのを耳にした山口一郎氏が「それいいね!歌詞変えようかな」とした注目の箇所です。実際には、リリース後に歌詞を変えるのは色々な権利の問題で難しく、オフィシャルで変更することはできなかったそうです。
なぜかドクダミと
それを刈る母の背中を思い出した
ここは東京
蔦が這うようにびっしり人が住む街
ここは秀逸。山口一郎さんが度々口にする「よい違和感」を感じます。
それに音が少ない。言葉を聴かせたい箇所であることは明らかです。
急な「なぜか」
突然の「ドクダミ」
ここからは記憶があいまいな話が続きます。
この歌詞が生まれたときの話を山口一郎さんはたびたびしています。確かなんだけど「俺、天才かと思った」みたいなことを言っていたような気がする。この部分の歌詞だけが決まらなくて、苦しんだというようなことを話してました。
ユリイカを作っていた当時、一郎さんはストレスから肌にたくさんブツブツが出来ていたのだそう。ブツブツを治すために一郎さんはドクダミ茶を飲んでいたそうですが、ふとドクダミを刈っている山口母の姿を思い出したというエピソードを語っていました。(ような気がする)
僕は故郷を思うたびに「ここは東京」と現実に対峙しています。
なんだかさみしげです。
もう戻れないのでしょう。
この曲はサカナクションが「sakanaction」で成功をおさめ売れた後にリリースされた曲です。
故郷(過去のサカナクション)にはもう戻れないと感じていたのでしょう。
最初の「びっしり」は”空を食うようにびっしりビルが湧く街”
2回目の「びっしり」は”蔦が這うようにびっしり人が住む街”
どちらも東京の情景を直喩のまま表現しています。
(サカナクションのenoughを聴くと、直喩のまま表現すること、つまり素直であることは苦手だと一郎さんは思ってるんじゃないかなと思う。笑 話が逸れました)
THE詩といった感じ。
僕は東京の情景をみて余白(≒余裕)がないように見えていて、そして、自分にも余裕がないと東京の景色と自分を重ねているような感じがします。
ここから歌詞とメロディが繰り返され・・・
時が震える
月が消えてく
君が何か言おうとしても
この歌詞に入る前に、チャイムのような音が鳴り、場面(心情)が変わったように感じられます。
しかもなんだか、音が明るい。
夜明けか?
「時が震える」は特に解釈が難しいと感じたけど、「過去への囚われ」が揺れ始めているように感じました。
そして、故郷にいた頃の記憶、昔の感覚、昔のサカナクションが消えていくことを「月」に例えているのかなと思いました。
さて、ここで大問題です。
歌詞をちゃんと見ていなかった私は「君が何か言おうとしても」とは聞こえていませんでした。笑
「君が泣いてようとしても」だと思ってた。笑
このシーンの「君」は今までの君とは違い、「過去の自分」だと思いました。
これは感覚的に。
え、じゃあ「夕方色に髪を染めてた君」も「淋しいと言っていた君」も全部自分で、昔の自分との対話だったのか???
というような「犯人はお前だったのか現象」が発生しているような気がします。
深いですね。
ただ、この部分の歌詞は明らかに今まで「東京の僕、モヤモヤ、焦る、いつ終わるの?これ」としていたシーンとは異なります。
月が消えて、夜があけ、朝がやってくるのだとすれば、変えようのない現実は昔の自分がああだこうだ言っていても、生き急いでいても、自分のコントロールできる範囲を超えて、必ずやってきてしまう。
過去の自分が何と言おうとしても、今の僕は聞こえなくなってきているのです。
時が震え、月が消えていき、もうどうしようもないやと僕は思っている。
もう過去の自分とはお別れの時がやってきているラストシーンです。
もう過去へは戻れない現実だけが東京の夜にあるのだと思います。
何度かフレーズを繰り返し、この曲の終わりは
「月が消えてく」
です。
次第に月が消えていき、余韻を残してこの曲は終わります。
つまり夜明けです。
ユリイカは過去の自分が消えてしまっている切なさ、モヤモヤ、悲しさを「郷愁」というテーマに乗せて歌った曲、わたしはそう思います。
この曲ができたとき、きっと一郎さんは嬉しかったのだと思う
ここでタイトルを見てみましょう。
Wikipediaによると
「ユリイカ(Eureka)」という言葉はギリシャ語に由来する感嘆詞で、何かを発見・発明したことを喜ぶときに使われる。
ユリイカは山口一郎さんが郷愁という大きなテーマへ挑戦した曲です。
この大きな挑戦の意味について、わたしは山口一郎さんの自分らしいミスチルへの挑戦みたいな意味合いだと思っています。
どういうことかというと、みんなが大好きなミスチルみたいに大勢が経験するテーマに対して、大勢が共感するような曲にするということ。つまり自分のことを歌うことなんじゃないかなぁと思ってます。個人的な日記を作品にするような感覚。(これはわたしの個人的な解釈です)
どこかのインタビューで、絶対無理だと思ってたけど、できちゃったと山口一郎さんが言ってました。(これもまた記憶が曖昧)
自分では無理だと思ってたことができちゃったから、ユリイカというタイトルなんじゃないかなぁと思うし、きっとこの曲ができたとき、一郎さんは嬉しかったんじゃないかなぁ。
是非聞いてみてね。
サカナクションでユリイカです。
では各種ストリーミングサービス、サカナクションYouTubeチャンネルへ。
解散。